入院ってなったら何を準備しますか?あれも必要これも必要?

突然の入院で学んだこと
今日、ケガで病気で入院するかもしれない!誰でもあり得ることだからしっかりと対策をしておこう。

16 7月

Posted in on 16.07.20

年末で、忙しい時に体に疲れが溜まっていたらしく、買い物に出た時に足元がふらついてしまいました。その際に転倒して右腕で体を支えたのが原因で、右腕の上腕部を骨折してしまいました。ひどい痛みで、腕がブランとしてしまって上にあげることもできず最悪でした。でもまずは帰宅しないと、と我慢して荷物を持って帰ってきました。

帰宅後も痛みはひかなかったのですが、刺身を買ったので今日食べないと!とお吸い物と和え物、ごはんもしっかり炊いて夕飯の準備を最後までしました。まさか骨折したと思っていなかったのですが、食事中も腕がどんどん腫れてきて痛みがズキズキ激しくなり、手の甲には内出血が広がっていてとても大変な状態であることが一眼でわかりました。

夫に見せると、すぐに病院に行かないと、と慌てて準備をしてくれました。時間外でしたので大きな病院の救急に行きました。ほとんど待ち時間なしで、医師に会う前にまず腕から肩にかけてのレントゲンとCTスキャンを撮ってもらいました。撮影時も痛みが酷くてなかなか固定できずとても辛かったです。

その後、やっと先生に診察してもらい、レントゲンを元にどのような状態であるかの説明がありました。状態としては、肩の関節部分の骨が見事にささくれだったような状態に折れていて、自然にくっつく可能性もあるが、基本的には手術でスチールプレートを入れて綺麗に骨をくっつける治療が最も有効であると言われました。手術は4日後なので入院は手術の1日前からということになりました。手術が順調にいけば、入院日数は3日間とのことでした。

入院するのは初めてだったので、何から何まで珍しかったです。腕は骨折していましたが、他の部分は元気だったのでずっとベッドに寝て過ごすだけの日々は本当に面白くありませんでした。入院中は4人部屋にいたのですが、それぞれのベッドはしっかりとカーテンで区切られていたので、どのような人が入院しているのかは、全くわかりませんでした。

入院したその日の夜に、一人の女性が私にカーテン越しに声をかけてきてくれました。どういう症状で入院しているのか、年齢は何歳なのか、など自己紹介がありました。すると他の2人の同室の患者さんたちも次々と、自己紹介をはじめてくれました。その時に、心細かった私はとても元気付けられました。

同室の女性たちの温かい心遣いに心から感謝しました。入院室は、本当に無機質で看護師さんも事務的なので、ともすれば気持ちが落ち込んでしまいがちでしたが、この同室の女性たちが、私の不安を吹き飛ばしてくれたことで手術の不安にも打ち勝つことができたと思っています。同室だったのは腹膜炎の40代の女性、足を骨折した30代の幼稚園の先生や心臓カテーテル治療をする70代の主婦の方でした。

70代の主婦の方が一番元気で「カテーテル治療をしにちょっとだけ入院しているだけなの」と言っていました。結婚前は医療メーカーに勤務していたので、カテーテルと言えば「フェイスメディカル」の担当さんがよく病院に来ては、使い方とか新商品の説明などしてくれたことを思い出しました。いつも、病院のラボなどにいたのでいるのが当たり前になっていましたので、すっかり医療スタッフの一員みたいでした。

入院中に怖かったのは、夜になると廊下ですすり泣く声がしたことです。その声は夜中じゅうずっと聞こえてくるのですが、同室の人たちは誰も反応しないし、もしかして私だけが、あの啜り泣く声を聞いているのかもと思うと、背筋がゾッとしてしまいました。ですが、あとからわかったのは、整形外科の入院病棟には認知症の高齢者もかなり入院しているということで、その人たちが夜中も廊下をフラフラ歩いたり、車椅子で徘徊したりするので、その声がダイレクトに入院室に漏れ聞こえてくるのがわかりました。

それにしても夜中の入院病棟というのは、なんとも言えず不気味なものです。まさにホラーの漫画で出てくるようなシチュエーションなので、それもまた恐怖心を誘ってしまいました。ですが日数にしてたったの4日間の入院期間でしたから、本当にあっという間の出来事でした。そんな恐怖体験も手術後の腕の痛みに全てかき消されてしまい、いつの間にか退院の日を迎えていました。ギブスでの生活は不便ですが、やっぱり自宅が一番だと思いました。

10 7月

Posted in on 10.07.20

家の掃除をしていて階段から落ちて骨折してしまったことがあり、手術をするために入院をしたことがあります。重たい荷物を階段から下に運ぼうとしたら足をひっかけてしまい、階段の下に荷物ごとすべり落ちてしまいました。ものすごい音がしたので、周りは命があるかと思ったのですが、幸い打ち所が良かったので、骨折だけで終わりました。私もすごい勢いで転がり落ちたので、もうだめかと落ちたときに思いました。ただただ痛かったです。

階段から落ちたときは意識があったので、そのまま夫の車で病院へ連れて行かれました。足が痛くて一人では歩けないような感じだったので、夫に抱えられて病院へ行ったような感じです。病院へ着いたら早速レントゲンを撮り、そこで骨折しているということが判明しました。

状態から見て手術をした方が回復は早いから骨をつなげる手術をしようということになりました。その日は足を固定して、包帯でぐるぐる巻きにしていました。そのときにはもう足は痛くはなくなっていました。病院へ行ったその日から早速入院をすることになり、次の日には手術をしていました。それから1週間ほどで無事に退院をすることができました。

入院中でとにかく辛かったのは、とにかく痛みと何もすることがないということです。術後の痛みがひどくて夜は眠れず、薬を飲んでも完全に痛みがなくなることはありませんでした。痛くて看護師を呼んでもそのままスルーされました。骨折の痛みくらいでは痛み止めの追加はできないようで、もう少し我慢してねーと言われました。

また、家族が毎日お見舞いに来てくれてすごく心強かったです。特に小学生だった上の子は自転車で病院まで来てくれたのでありがたかったです。そして、私ができない家事などをこなしてくれていたようで、頑張ってくれていました。弟がいるのですが、まだ小さいので、弟の面倒も見てくれていたようです。これが、私が一番うれしかった出来事です。

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普段私が元気にしているときは何もしてくれませんでしたが、いざというときは助けてくれたので、とても心強かったです。このときは本当に家族がいてよかったなと思いました。家族から離れて生活をしていたので、あらためてそう思えました。入院中はとにかく気がめいるくらい暇でした。

入院中に困ったことはとにかく暇ということです。テレビも好きなときに見られるわけではないですし、何か読むのも疲れてしまうので、あまり読めませんでした。夫に本を買ってきてもらって読むのですが、病室ではあまり読む気になれずに、あまり手をつけませんでした。

入院生活も5日目になると本当に暇で飽きてしまいます。私の中ではこの時間をどうしたらいいのかといのが一番困りました。また、ご飯も好きなものを食べることができず、病院食なので、もっと肉とかスパゲッティなど好物を食べたかったです。入院中は好きなことができないので、あらためて病気や怪我にだけは気をつけようと思いました。

あとは、病院はなんだか怖かったので早く帰りたかったです。正直私は怖くて最初の方はあまり眠れませんでした。どうしても「幽霊がいる」という不安があってそれが怖くて寝ることができずにそれも困りました。とにかく早く家に帰りたくてたまらなかったです。長い入院生活をしている人は大変だと思いました。

02 7月

Posted in on 02.07.20

昨年7月に自家用車にて出勤中、落石に乗り上げバランスを崩したことによりガードレールにぶつかる事故を起こし、自ら警察と救急車を呼び、病院へと運ばれました。自分自身の感覚では、エアバックが出たため、軽傷で入院するほどのことはないだろうと考えていましたが、診察を受けた結果、入院することになりました。家族が駆けつけて、入院手続きや職場への連絡を行なってくれたため、私は安静にして治療に専念することができたので、助かりました。

病院に着いて、レントゲンやMRIなどさまざまな検査を受けました。その結果、骨折はしてはいなかったのですが、右側の腸が腫れ、炎症を起こしていたため、入院することになりました。家族が駆けつけてくれていたため、検査が終わり入院が決まるまで家族が一緒に待っていてくれたので心強く感じました。

入院が決まると父が職場へ再度連絡をし、入院することになった旨を伝えて、母が入院生活に必要な準備をしてくれたため、私は余計なことを考えずにベッドに横になることができました。治療としては、腫れと炎症を抑えるための点滴を24時間投与し、ベッドに横になりながらの絶対安静でした。また、ねんざには湿布薬を貼って、すり傷の消毒なども行なってもらいました。

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入院中は、とにかく家族のありがたさや看護師さんの優しさが身に染みました。正直、大人になってからは、1人で自立して何でも自分でこなしてきたので、親の存在が自分の中で小さくなっていました。しかし、入院生活を通してさまざまなことに対してサポートしてくれ、親がいたからこそ、入院生活を乗り切ることができました。

同時に、「自分1人で何でもできる」と考えていた自分自身の傲りに気がつき、反省しました。このように、家族のありがたみは入院生活を通して、改めて感じました。また、看護師さんが点滴の交換の際や食事の際などに、私の気が紛れるような、ちょっとした笑い話などをしてくださったため、退屈で心細い入院生活の中でも息抜きをすることができました。

この入院を通して、私は自分の弱さと「人は1人では生きていけない」と言うことを改めて実感しました。事故はマイナスの出来事でしたが、得るものもあったので、完全なるマイナスではないなあと思います。実家と遠く離れていて頼る友人もいない場所でもし事故にあっていて誰も助けてくれなかったらどうなっただろうと、思います。

入院中に怖かったことは、やはり夜です。個室だったので、尚更夜の病院の怖さをひしひしと感じ、入院して数日間はなかなか眠れず、夜中に何度も目を覚ましてしまいました。そして、シーンと静まり返った中で、パタンやキーッと音がするたびに身を固くしながら、目をギュッと瞑り耐える、と言った具合でした。

昼間も自由に動き回れないのでベッドの上で過ごすことが多くほとんど寝ていたので余計に眠れず、だからといってテレビを見るのも音が漏れたら迷惑だし、と目をつぶって眠るのを待つしかありませんでした。頭は冴えているので音を聞くたびに今のは何の音だろうか、と考えて、怖い想像ばかりしてしまいました。

入院中に困ったこと言えば、入浴や洗面が自由にできなかったことです。普段、どんなに体調が悪くとも、酔っていようともお風呂に入らないと気が済まないタイプだったため、かなりのストレスになりました。頭の痒みや肌のベタベタが気になり出すと、もう、いてもたってもいられない気分になりましたが、どうにもならず、ただ悶々としていました。

しかし、慣れとは恐ろしいもので、次第にそれほど気にならなくなり、自分の中の衛生感覚が変わったように思います。そんな中で、温かいタオルで顔を拭く時は何よりの幸せ感に包まれました。その時の感覚は、今でも鮮明に覚えています。

24 6月

Posted in on 24.06.20

二年ほど前、散歩をしていた時のことです。横断歩道を渡って、反対側のコンビニに向かっていました。信号は青、安全も確認していました。あと少しで渡り終えるというところで、体が宙に飛びました。宙に飛んだ私はアスファルトに激突したのです。その時は衝撃も痛みも何も感じませんでした。

何が起こったのかもわかりません。一瞬、意識を失ったのかもしれません。しかし、意識が戻った時、車から高齢の男性が降りてきていました。大変うろたえながら、私に話しかけています。場所は道路です。このままでは危ないと思ったので、ほふく前進でなんとか歩道まで移動しました。その間も、男性は私に『どうしたらいいですか?』と聞いていました。

救急車で病院に担ぎ込まれると、すぐに処置が始まりました。レントゲンを撮った事を覚えています。意識はしっかりとしていたはずですが、私自身体中の痛みと家族のことが心配で、何かを考えなくてはと思いながらも、何も考えられない状態でした。しばらくすると、先生から大腿骨にヒビが入っていることを伝えられました。本来ならば、複雑骨折になっていてもおかしくない状態だったそうです。

このまま家に帰ることもできず、すぐに入院が決まりました。車椅子に乗せられ、ベッドが空くまで待っていて欲しいと言われました。看護師の方に体中が痛いと言いましたが、相手の車が低速だったにしても、アスファルトに激突しているので、打ち身による痛みはありますということでした。確かに、言葉通り体の痛みは1~2日で消えました。

入院は3週間に及びました。その間、たった一人の家族である娘が、毎日見舞いに来てくれました。娘の手にはふたり分のお弁当があります。病院の食事は、あまり栄養を考えたものとは思えませんでしたし、できるだけ糖質を抑えた食事を心がけていた私には問題が多かったのです。

特に肉がメインだったこともあり、肉が嫌いな私には辛い以外の何もありませんでした。それをわかっていた娘が、今まで料理などしなかったにも関わらず、作ってきてくれたのです。おかげで、野菜中心の食事を毎日とることができました。娘の優しさに、我が子ながらよく育ってくれたと感謝しました。

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優しさといえばもう一つあります。看護師の男の子です。3人ほど男性の看護師がいたのですが、その中の一人が体を拭くためのタオルを配っていました。もちろん女性の部屋ですから、拭いてもらうわけにはいきません。しかし、その男の子は「清拭は看護師の仕事だから」と一人ひとりの患者さんを拭かなくてはと思っていたのでしょう。私が自分で拭いて、タオルを渡したとき『ありがとうございます』と笑顔で言ってくれました。その爽やかな笑顔に癒されました。

リハビリも始まりなんとか動けるようになると、痛いながらも杖をついてトイレまで行けるようになります。もう少し頑張れば家に帰れる、そんな時のことでした。整形外科というのは、入院患者の入れ替わりが多いようで、新しく入ってきた方がいました。歩くことはできるのですが、多少認知症の症状があるようでした。家族の方が毎日来るのですが、その世話も大変なようです。

気を抜けば、毎日飲んでいるサプリメントの何回分もの量を一度に飲んでいたり、水をベッドにこぼして大騒ぎになっていたり、夜中に誰かと話しているのかと思ったら、大きな独り言だったりと、とてもにぎやかでした。ある夜、何かが倒れる音がしました。そして、うめき声です。なんだろうと思った私はベッドから降りて、カーテンを開けます。すると、先ほどのおばあさんがベットから落ちているように見えました。すぐに声をかけ、ナースコールを押しました。

看護師がすぐに来て、ベッドに戻していましたが、どうやらトイレに行こうとベッドから降りた途端椅子につまづいて倒れてしまったようです。そんなことが重なり、とうとうおばあさんは退院していきました。おばあさんが退院すると、病室の誰もが口を揃えて『これでゆっくり寝られる』と言っていました。

・親のありがたさを改めて実感

昨年7月に自家用車にて出勤中、落石に乗り上げバランスを崩したことによりガードレールにぶつかる事故を起こし、自ら警察と救急車を呼び、病院へと運ばれました。自分自身の感覚では、エアバックが出たため、軽傷で入院するほどのことはないだろうと考えていましたが、診察を受けた結果、入院することになりました。家族が駆けつけて、入院手続きや職場への連絡を行なってくれたため、私は安静にして治療に専念することができたので、助かりました。

病院に着いて、レントゲンやMRIなどさまざまな検査を受けました。その結果、骨折はしてはいなかったのですが、右側の腸が腫れ、炎症を起こしていたため、入院することになりました。家族が駆けつけてくれていたため、検査が終わり入院が決まるまで家族が一緒に待っていてくれたので心強く感じました。

入院が決まると父が職場へ再度連絡をし、入院することになった旨を伝えて、母が入院生活に必要な準備をしてくれたため、私は余計なことを考えずにベッドに横になることができました。治療としては、腫れと炎症を抑えるための点滴を24時間投与し、ベッドに横になりながらの絶対安静でした。また、ねんざには湿布薬を貼って、すり傷の消毒なども行なってもらいました。

入院中は、とにかく家族のありがたさや看護師さんの優しさが身に染みました。正直、大人になってからは、1人で自立して何でも自分でこなしてきたので、親の存在が自分の中で小さくなっていました。しかし、入院生活を通してさまざまなことに対してサポートしてくれ、親がいたからこそ、入院生活を乗り切ることができました。

同時に、「自分1人で何でもできる」と考えていた自分自身の傲りに気がつき、反省しました。このように、家族のありがたみは入院生活を通して、改めて感じました。また、看護師さんが点滴の交換の際や食事の際などに、私の気が紛れるような、ちょっとした笑い話などをしてくださったため、退屈で心細い入院生活の中でも息抜きをすることができました。

この入院を通して、私は自分の弱さと「人は1人では生きていけない」と言うことを改めて実感しました。事故はマイナスの出来事でしたが、得るものもあったので、完全なるマイナスではないなあと思います。実家と遠く離れていて頼る友人もいない場所でもし事故にあっていて誰も助けてくれなかったらどうなっただろうと、思います。

入院中に怖かったことは、やはり夜です。個室だったので、尚更夜の病院の怖さをひしひしと感じ、入院して数日間はなかなか眠れず、夜中に何度も目を覚ましてしまいました。そして、シーンと静まり返った中で、パタンやキーッと音がするたびに身を固くしながら、目をギュッと瞑り耐える、と言った具合でした。

昼間も自由に動き回れないのでベッドの上で過ごすことが多くほとんど寝ていたので余計に眠れず、だからといってテレビを見るのも音が漏れたら迷惑だし、と目をつぶって眠るのを待つしかありませんでした。頭は冴えているので音を聞くたびに今のは何の音だろうか、と考えて、怖い想像ばかりしてしまいました。

入院中に困ったこと言えば、入浴や洗面が自由にできなかったことです。普段、どんなに体調が悪くとも、酔っていようともお風呂に入らないと気が済まないタイプだったため、かなりのストレスになりました。頭の痒みや肌のベタベタが気になり出すと、もう、いてもたってもいられない気分になりましたが、どうにもならず、ただ悶々としていました。

しかし、慣れとは恐ろしいもので、次第にそれほど気にならなくなり、自分の中の衛生感覚が変わったように思います。そんな中で、温かいタオルで顔を拭く時は何よりの幸せ感に包まれました。その時の感覚は、今でも鮮明に覚えています。

19 6月

Posted in on 19.06.20

小学生の時自転車に乗っていて坂道を猛スピードで降りているときに逆に登ってくる乗用車と追突。なんと弟と一緒に競争していたこともあって2人同時に車にひかれて、救急車に乗って救急病院に運ばれることになりました。夏休みの夕方のことで、先方の車を運転していたのは大学生でした。

正直なところ完全に悪いのは子供だった私たちの方だと思います。ぶつかった瞬間の事は30年経った今でも鮮明に覚えている位、衝撃的な出来事でした。プールに行った帰りに弟とどっちが先に家に着くかの競争をしており、しかも急な坂をどれだけ早く下りられるかを競うなど、今考えるだけでぞっとするほど危ないことをしたものです。

ガードレールで頭をぶつけた拍子に田んぼに落ちたことで、頭を打ち付けた部分の出血があり今でも覚えていますが、ストレッチに乗せられて麻酔をかけられたことを覚えています。人生で初めて縫うことも体験しました。もちろん麻酔をかけましたがなんとなく頭を針と糸が動いているのが視界に入り怖かったです。

田んぼとはいえ、5メートル近いところから墜落したこともあり痛いところがないか、骨折したところはないかと言う問診も同時に行いました。また頭を打ったこともあって「落ち着いたらすぐに頭のレントゲンを撮りましょう」と言う話を親と一緒にされたことを覚えています。自分自身はそれどころではなく、動揺していて痛みよりも周りに迷惑をかけて申し訳ない、いろんな人に怒られるのではないかと言う嫌悪感でいっぱいでした。

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小学校4年生の時でしたが生まれて初めての入院でした。今46歳になりますが後にも先にも入院したのはあの時だけです。頭のレントゲンを撮ったり、縫ったところは問題ないかを毎日チェックされるだけで食事の制限なども全くありませんでした。おじいちゃんにおばあちゃんがほぼ24時間ついてくれていたこともよく覚えています。

なんといっても弟と一緒に事故にあい、そのまま同じ部屋に入院したことに恥ずかしさを覚えるばかりでした。昔からおじいちゃんおばあちゃんが大好きでしたが入院したときにたった三日間とは言えとはいえ、ずっと病院に来てくれるのが嬉しかったです。夜も看護師さんがちょくちょく来てくれたので安心して過ごせました。

また食べ物に制限がなかったので大好きなデザートをたくさん買ってきてくれ、フルーツだらけの良質だったこともよく覚えています。人生であれだけフルーツをたくさん食べた事はないと言う位食べました。結果的に大した怪我ではなかっただけに、怪我の功名とはまさにこのことかもしれません。

入院中に忘れられないのは、なんといっても頭に異常があるかないかを確認する検査です。先生に質問をされたり、頭のレントゲンを撮る検査を行ったりするのは非常に面倒に感じていました。しかし、何らかの拍子に自分自身が頭に血管を追って一生マイナスな部分が出てくるのではないかと子供ながらに不安になりました。

先生からも簡単な脳震盪位で問題ないだろうと両親を通じて説明があったのですが自分自身としてははじめての入院であり、実際に救急病院に運ばれた時も麻酔がかかっていると言いながら頭を針と糸が通る姿を見てしまったので衝撃的でした。チクチクしている感覚などよく覚えています。

それ以外に入院で怖いことなど一切ありませんでした。むしろ弟と同じ病室で会話をしながらテレビを見ることができ、たまたま4人部屋にもかかわらず2人で三日間とは言えいろいろな話をすることもでき、見舞いにも同級生が来てくれたので全く寂しいこともありませんでした。当時は本当に近所のお兄ちゃんたちとの仲が良かったので病室で交わした会話は今でも覚えています。